22時を少し過ぎた頃、《コンコン》と床下からノック音が聞こえた。
(来たか)
久遠は徐に床に敷いてあった絨毯をめくった。
床はタイル貼りで出来ており、そのなかに一枚、よくみると指が2本入る程度のくぼみがあるタイルがあった。久遠がそのタイルを持ち上げると木造の引き戸が現れそれを横に引くと2メートル下に京太郎の姿があった。壁にかかっていた梯子を登りいよいよ久遠の部屋に入った京太郎は辺りを見回すと小声で「良き」と呟いた。
12畳の久遠の部屋は天井が高く、東側は一面木製の格子で仕切られた結霜ガラスの出窓になっている。両脇は色ガラスが所々に施されたステンドグラスが施されていて久遠はそれが大のお気に入りだ。
部屋は赤褐色のサペリの腰壁が3面に施されており薄い桜色の壁によく映えている。
木製のベッドには草花模様のベッドカバーが付けられていて全体的に女性らしい落ち着いたインテリアになっている。
「こっちじゃプロデューサー。」
心なし鼻息が荒くなっている京太郎に淡々とそう告げると本棚を引き隣の《隠し部屋》に案内する。この部屋には電灯がないので、入ってすぐのところにあるランプにマッチで火をつけ奥の机に置いた。
「成る程ここが例の部屋ですね。一階なのに天窓がついている。普段はこちらから明かりとりされてるんですね。広さは4畳半か…。ふむ。……ん?これは…。」
「プロデューサー、ちょっとええかのぉ?出来たら早めに済ませたいんじゃが。」
「ああ、すみません。身内以外の女性の部屋に入ってた事など無いものでつい…。どれ、どこまで進んだのか見せてもらいましょうか…。」
机の上に置いてある《改良型全搭載パーソナルコンピューター》を開き久遠が指差した場所を京太郎が覗き込む。
「ここじゃ…ここから先がわからんのじゃ…」
「ふむ。確かにこれでは分かりづらい…。少し調整しますのでお時間頂いても宜しいですか?」
「ああ…じゃあわしは向こうの部屋で待ってま……プロデューサー、それどこで見つけたんじゃ?何で頭に付けとる?」
ランプの明かりでは暗い為近くに来るまで気付けなかったが京太郎の頭には狐の耳の形のカチューシャが装着されていた。
「この部屋に入ってすぐのランプが置いていたチェストの引き出しの中に入っていました。僕は普段ヘッドフォンを付けた生活をしているものでね。こうして何かに頭部を締め付けられている方が作業に集中出来るのですよ。どうです?似合うでしょう?」
「似合うかどうかの前に勝手にチェストを開けるな。そのカチューシャはわしが去年、学園祭のお化け屋敷で化け狐に変装していた時にしていたものじゃ。今すぐはず…」
「化け狐か…。さぞかし可愛らしかった事でしょうね」
「…そりゃあ、わしは何を付けても似合うからのぉ」
「そうでしょうとも。貴女がいつも付けている扇子の髪飾りも貴女が付けているからこそ一層素晴らしく見える。何でも映えてしまうんですねぇ。」
「褒めたって何にも出らんぞ〜!よっしゃ、作業に集中するとあれば、お飲み物くらい用意せんとのぉ〜」
「助かります。出来たら何か甘いものもあると有難いのですが。」
「任せるのじゃ!」
京太郎を《隠し部屋》に残し彼が来る前の状態に自室を整えた後、厨房へと向かいながら(はて、何かのせられた気が…)などと考えていた久遠の耳にひそひそと人の話し声が聞こえてきた。
久遠の耳は一般人より長く大きい。
その為静かな場所では普通の人では聞き逃す小さな音でさえも拾ってしまう。
聞く限り常駐の女中が2人、部屋の中で何やら話しているらしい。
足音を忍ばせつつ、女中部屋の扉に近づき耳をすませる。
「この前もそうだったのよ。朝、厨房の戸棚を調べたらお嬢様の為に用意していたキャラメルが半分以上消えていたの…。」
「おかしいわねぇ。誰かくすねているのかしら?」
「私もそれを疑ったわ。でも普段厨房には紅茶好きな奥様が出入りされていて隙がないし、お嬢様はいつも《懐中キャラメル》を持ち歩いていらっしゃるし太ももにも常備されているでしょう?私達も長くこのお屋敷に勤めているけれど今までこんな事なかったし……それがこの一週間毎日よ?」
「そうよねぇ…。戸締りはいつも入念に確認しているし……ひょっとして物の怪の類なんじゃない?」
「ちょっと!やめてよぉ…。怖い話苦手なんだから……。」
(物の怪じゃってぇ〜っ!!)
声にこそ出さなかったが久遠は震え上がった。
夜の御来屋邸は月明かりが廊下をほんのり照らしているだけの静まりかえった空間が続いている。
普段なら自室で読書しているか、もしくは寝ている時間なので気づかなかったが、夜になると広いわりに暗くてひと気のない邸内そのものが不気味な気がしてきた。
行くか、戻るか…。
しかし御来屋邸最奥部にある自室に戻るよりも今いる場所は厨房に近い。
しばし考えあぐねた結果、やはり厨房に行くことにした。
震える胸を抑え、恐る恐る厨房に入る。あの話を盗み聞きしたものだからやけに気味が悪い。
手早く照明を点けて紅茶を用意しようと例の戸棚を開けた途端、久遠は「ひゅっ」と息を飲んだ。
キャラメルが……無くなっている。
全てではなく、あの女中の話どおり半分くらい消えている。
こうなるともう紅茶だの菓子だの言っている場合ではない。恐怖がつま先から頭の先まで一気に駆け上がってきて、叫びそうになりながら大急ぎで厨房を飛び出した。
と、同時に…
「きゃああああああああっ!!」
「!!」
遠く、自室の方から叫び声が邸中に響き渡って久遠は心臓が止まる程驚いた。
一体何が起こったというのだろう。
誰の何の叫び声なのだろう。
まさか本当に物の怪が出たとでもいうのか。
バクバク心臓が早鐘を打って止まない。
耳元で鼓動が聞こえる様な感覚を覚えながら久遠は自室へと急いだ。
なんだか嫌な予感がする。まさか京太郎を忍び入れたのがバレたのか?
丁度自室前に差し掛かる頃誰かが付けたのだろう、廊下が照明で明るくなる。
久遠の部屋の扉は開いていて、女中が2人腰を抜かした様に部屋の前で座り込んでいる。
その目には恐怖の色が滲んでいて、今しがた信じられないものを見たといった様子がありありと伺えた。
「なんじゃ!?何があったんじゃ!?」
「あっ…お嬢様…ご無事だったのですねっ!?」
「⁇」
「で……出たのです!!」
「出たって…何が……」
一瞬、京太郎が脳裏を横切り背筋がスーっと寒くなった。
しかし女中の口から出たのは思いがけない言葉だった。
「出たのですよっ!!化け猫がっっ!!」
「化け猫ぉっ!?」
そこから女中をなだめて聞いた話をまとめるとこうだ。
久遠が女中部屋を横切り厨房へ向かった後、2人いたうちの《茜》という小柄な女中が、久遠の自室のある奥の棟の戸締りを一箇所だけし忘れたかもしれないと言いだし、怖いから2人で行こうともう1人の背の高い《秋》という女中とともに確認しに行ったところ、久遠の部屋の中から「ガタガタッ」と何かが動かされる様なな音がしたのだという。
色々と情緒不安定だった2人は音の正体が何なのか気になりノックして久遠に聞こうとしたが返答はなく仕方なし勝手にドアを少し開けて確認しようとしたところ、まず黒い何かが扉の向こうで横切り、続いて「ギギッ」っと窓が軋む様な音がして、慌てて扉をさらに開けた2人の目に映ったのは結霜ガラスの向こうに見えた大きな化け猫のシルエットだったのだと言う。
「シルエットだけでどうして化け猫だと?」
「大きな耳が付いてましたし……私達が踏み込んだ時確かに「ニャーン」って鳴いたんです!!」
まだ涙声でそう力説する茜にうんうんと頷きながら秋も続ける。
「私も聞きました!!確かに「ニャーン」って!!きっとあの化け猫がキャラメルをくすねていたんだわっ!!」
そうに違いないという2人にそうだとも違うとも言えないのは久遠ばかり。
十中八九、化け猫の正体は京太郎だ。
おそらく京太郎が何らかの理由で《隠し部屋》を出て本棚を戻したタイミングで、女中がその音を聞きつけ騒動になったのだろう。
キャラメルの件は謎を残したままだが…
兎も角これが後々語られ続ける「御来屋邸化け猫事件」である。