可音のブログ

なんとなし気が向けば書きます

圧倒的妄想上の御来屋さん家の事情 ①

「久遠!久遠!」

庭から母の声がして、久遠は急いで《ソレ》から離れた。

 

「なんじゃ?お客でも来たか?」

母の声の様子からそう察して慌てて部屋の片隅にある本棚に向かう。そして徐に棚を横に引き現れたこの部屋の唯一の〈入り口〉から隣の部屋に飛び込み本棚を元あった場所まで引き戻した。その本棚から適当に一冊取り出しあたかも読んでいるかのように装う…と同時に。

 

「久遠!……なんだ、居たの。居るならいるで返事して頂戴よ。」

ノックもなく飛び込んできた母を横目で流し見て久遠は溜息をついた。

 

「かか様。ノックをして欲しいといつも言っとるじゃろ?」

「貴女が返事をしないからよ。兎も角お客様よ。例のあの方。旦那様がお留守の時に殿方を招くのは…あまり…。」

「わしが出る。5件先の角の喫茶店にでも行ってくるから。」

「わかったわ。では頼んだわね❓」

 

支度を手早く済ませて玄関に向かうと手前の待合室に人影があった。

年の頃は20代そこそこといったところだろうか。三つ鱗紋の山鳩色着物に紫黒の薄手のコートを肩にかけ鈍色のハットを被り丸眼鏡を掛けた男が、窓際で革のソファに座り母が出したのであろう珈琲を優雅に嗜んでいた。

 

「お待たせしてしまって申し訳ないです。」

久遠が声をかけると窓の外を見ていた彼はこちらを向いた。

「良いんですよ。ちっとも待ってなんか居ませんし女性なら支度に時間が掛かる事くらい当たり前ですから。」

 

眼鏡の奥の瞳がフワリと笑う。

一見優しげなジェントルマンだがこの男がこう見えてなかなかくえないと言うことを久遠は把握していた。

 

「それに突然来た僕がいけないのですよ。今日はお父上はお留守なのでしょう?気を遣わせてしまって申し訳ないので、どうです?角の喫茶店に出掛けませんか?」

 

ほらやっぱり、と思う。

大方女中達の様子を見て察したのだろう。

それだけに留まらずこちらの提案まで先読みするとは、やはり侮れない。

 

「助かります。では行きましょうか。」

 

この男に久遠が初めて会ったのは雪がチラつく2月の事だった。母と五越に行った帰りしな「本屋に寄るから」と一人で銀座をぶらついていると明らかに見たことない風貌のこの男が電柱の傍にしゃがみこみ何やらシクシクと泣いていたのだった。恐る恐る事情を聞くとなんのことはない空腹に耐えかねて寒空の下で、良い歳して泣いているのだと言う。

仕方なく近くの軽食屋に入り、本を買うつもりのなけなしの金でオムライスを奢ったところ、申し訳ないですよと言いながらペロリと平らげこうのたまった。

 

「君、Vtuberになる気はないか?」と。

久遠の心中察するに余りあるだろう。

当然彼女は困惑した。状況も状況、相手も相手。そもそも聞きなれない言葉だった。

けれどその後その男は実に雄弁に自身の計画を語って聞かせたのだった。その勢いたるや凄まじく、2月にペラペラな長袖の黒の肌着姿なのに汗をかいているのが見てとれる程の熱量だった。

彼の話には驚くべき点がいくつかあったが、その中でも久遠が一番驚いたのは彼が未来人だということだった。始めは訝しんでいた久遠も、彼が見せてくれた様々なテクノロジーの結晶とやらの謎を解く事は叶わず、結局全てを鵜呑みにするほかなかった。

 

久遠の世界は現在大正23年。《ネオ大正》とのちにこの男から称される。

一方この男が来たのは平成という元号らしい。しかもその世界では大正時代は僅か15年で幕を引いたとの事。そうつまり単なる未来人では無くパラレルワールドの世界から来た異世界人でもあったのだ。その世界で彼はそこそこ名の知れた人物であり、プロデュース稼業の手初めに《Vtuber》なるモノに相応しい人物を探していたところ、何の因果か応報か此方の世界に転送されて来てしまった 、とここまでは久遠自身も話をしていた彼でさえも驚いてしまうほどすんなりと理解出来た。

 

問題は何故その《Vtuber》にあろうことか異世界のさらに言えば時代すら違う久遠を選んだのかという点だ。

聞こうとする3秒手前で彼は言った。

 

「何故?とお思いでしょうが僕は貴女ほど相応しい方はいないと断言出来る。銀座を一人で歩く姿がお若いのに様になっていた。それに所作が綺麗だ。育ちの良さと芯の強さが見て取れた。それでいて優しく面倒見がいい。普通こんななりの男に声をかけるなんて出来ませんよ。」

 

指で眼鏡をクイッと上げ、面食らって唖然としていた久遠にフワリと笑う。

 

「申し遅れました。米倉京太郎と申します。」

 

こうして2人は出会ったのだった。