可音のブログ

なんとなし気が向けば書きます

哀しき暴論

人として尊敬や興味といった好意を持っている相手がいた。

分類するならしずかな体育館に響く凛としたピアノの音色だとか、春先にひんやりと漂う洗いたての朝の空気だとか、そういったものに近い。感覚的に本能的に気に入っているそれらを出会う度に当たり前に愛でるようにただ一方的に好ましく思っていた。人として親しくなりたいという思いはあっても、とりたてて自分から何かするという事もなく平穏な日常を過ごしていた。それで良かったし、まもなく終局を迎える己の内なる華など自分ですら興味を持てなかった。

 

ある日ふと相手のピントが自分に合わせられている事を告げられた。ただしそれは「女」というフィルター越しに、である。当然ピントは合わない。かの人は今まさに衝動や情愛や情欲を

欲する真っ只中にいて、その照準が今私に合わせられているのだ。他でも無い私に。

 

こんな時、皆さんならどういう選択をするのだろうか。「恋愛に興味がない」と突っぱねるだろうか。それとも「ラッキー!」と手放しで喜ぶのだろうか。

 

私は一瞬「残念だ。」と思った。もちろん嬉しい気持ちも高揚感も遅ればせながら怒涛の勢いで押し寄せてきたけれど。

それから自らが彼のピントに合わせにいった。

ピンボケは気持ち悪い。ピントが合うのは気持ちがいい。人間的に普遍的な好意であるそれを内側に押し込んで、恋愛的な好意を向けているのだと告げる。すると彼のレンズは妖しい輝きをもって私をその中におさめつづける。予めシャッターはきれない、写真にはならないと告げてもレンズ越しの瞳は熱の籠もったままひたすらに私を見る。角度を変えれば喜び、沢山の嬉しい言葉を浴びせてくれる。その度に私の中の好意はその色を変えて刹那と欲情の色を濃くする。

 

こんな話の結末なんて見なくてもわかるはずだ。始まりからすべてわかっているのだから。

恋愛にもならないのに互いのピントだけが合い続ける。なんて事はない。

いつしか相手に合わせたピントは戻すことが困難になった。相手のレンズがこちらを向かなくなっても…。

 

わかっていた。だから「残念だ。」と感じたのだ。もう私の願いは叶わない。「カメラを下ろした彼とただの人として仲良くありたい」という願いは。「今すぐにシャッターがきれる人」を探す彼の瞳は見つけられたのだろうか。正しい相手を。ピントを合わせるべき相手を。

 

世の中には女の華は死ぬまで枯れぬといった強く美しい精神を持ち常に己を磨き続けている尊敬すべき先輩達が五万といるのに、私にはその精神は全く芽生えなかった。間も無く訪れると感じていた女としての死はかの経験により虚しく惨めに私の目の前に叩きつけられた。私は己の華の潮時を40までと位置づけそれまでにすべき支度に取り掛かった。華である時期にはどうしても他人から自分に向けられる価値基準が「女として」どうであるかに設定されているように思えてならなかった。美しさやスタイルやセクシーさや…挙げれば枚挙にいとまが無い。しかしてこれらの価値を持続させる為に労力を割く考えが自分に無く、かつ平凡以上でいたいという考えもあって終焉を迎える女性性に代わる何かを他で補う必要があった。創作活動自体は以前から行っていたが自分の中でただの趣味だったそれをライフワークにしていこうと思った背景にはそうした一種の憂いがあった。

 

残りわずかな時間で突如として訪れた恋は私にいろんな感情をくれた。「いい歳して」と咎めないで頂きたい。終わりゆく中でピントをずらされたまま、それでも巡り来る季節の色や匂いのように私は愛でている。

 

いいじゃないか、たった一度の人生なんだし。

 

いいじゃないか、全部お互い様なんだし。

 

いいじゃないか、もう私は終わるんだから。

 

いいじゃないか、楽しかったことだけ。

 

シャッターきれなくても、写真にならなくても、貴方がだれかと幸せになっても

 

いいじゃないか、それを見てるくらい。